異呆人

どこにも行けないなら どこにも行かなくていい

息子の誕生日

昨日は息子の誕生日だった。

天皇誕生日でもあるので、向こう数年、しばらくは誕生日が祝日ということになる。

なんとも良いタイミングで生まれた奴である。

お正月やクリスマスのような他のお祝い事と重なっているわけでもないので、プレゼントを一緒くたにされることもなければ、長期休暇で友人と会いづらいということもない。

まあまだ4歳になったばかりなので、そんな恩恵を感じるのはまだ先だろうけど。

 

息子の誕生日は、2人で出かけた。

なぜ2人なのかを説明すると、それだけで記事が1本出来上がるので割愛する。

午前中にトイザらスでプレゼントを買い、お昼はマクドナルドでハッピーセットを食べ、午後は映画を見るというプランだった。

息子は3歳になる少し前くらいからウルトラマンにハマっていて、この日もプレゼントにウルトラマンのソフビ人形を買い、午後から観た映画も封切られたばかりのウルトラマンだった。

(ちなみに私はウルトラマンより仮面ライダーや戦隊モノが好きだったので、ウルトラマンは申し訳程度にしか知らない)

映画館は初めてだったのでどうだろうかと思ったが(ビビりなので大きな音とかが苦手)、ポップコーンを食べながら存外気にせず楽しんでいるようだった。

 

さらに家に帰ると、私が夕飯にオムライスとハンバーグを作り、デザートには同居している義父が買ってきたチョコレートケーキが待っているという状態だった。

あと、ソフビだけだとプレゼントがしょぼいかと思い、息子が欲しがっていたロイヤルエクスプレスのプラレールも買っていた。

まさに、至れり尽くせり。

いや、誕生日という年に一度の子どもにとっては一大イベントであるわけだから、このくらい特別感があってもいいだろう。

少なくとも私はそう思う。

自分がそれほど厚遇された誕生日を過ごした記憶はないけれど。

 

とにかく、息子は一日中楽しそうだった。

私にとっては、それで十分である。

家族のために生きている、というと少なからず語弊があるが、まぁ似たようなものだから。

少なくとも、結婚して子どもを持つに至った理由は、自分のリソース(お金とか時間とか労力とか)を自分以外の身近な誰かに使用し、その様子を間近で見ていたかったということが主である。

愛だのなんだのより、もっと明確。

というより、それが私にとっての愛だと思っている。

 

私にとっては、もう大概退屈な人生あるいは世界であるけれど、そんな世界をただ可能性を持って生きられる存在を眺めているというのは、なかなか楽しい。

それがたとえ何の特別感もない世の中のよくある事柄の中に埋没していくとしても、そのプロセスそのものが生きる価値そのものだと思うのである。

いや、本人はどう思うか知らんけどね。