「なぜ生きる?」という問いからの解脱
久しぶりに記事っぽい何かを書こうとしている。
最近、ちょくちょく「書こうかな」と思うことはあったのだが、その面倒さと無意味さの前に簡単に匙を投げていた。
つまり、今日の私は上記を超越するくらいにモチベーションが高い、あるいは暇、あるいはやりきれない思いを抱えていると言える。
いや、どれも正解のようで正解でない。
ただのジョークであり、気まぐれである。
いつも通り前置きが長くなったが、私は生きる意味について数十年来考え続けている。
答えもすでに出ており、それもまた数十年来変わっていない。
反芻するように確かめているということでもあるし、新たな発見を期待しているということでもある。
どちらでもよろしい。
結果として答えは変わっていないということは事実である。
答えを端的に述べるなら、生きる意味などない。
少なくとも、個人にとって、個人の生きる意味はない。
それぞれが自分の生きる意味を何かに見出すことは自由だし否定もしないが、客観的に見るならば、死んで消滅するという結果は、消滅する側には何も生み出さない。
残される人間、人類、あるいは社会という第三者的なものにとっての意味はあるが、それとて、残される人間、人類、あるいは社会がいずれ消滅することを考えれば、長い尺度では意味がない。
まぁそこまで考えなくても、死んだ後のことを死んだ人間は考えられないし、感じることもできないというだけの話である。
この問答(「なぜ生きるのか?」→「理由も意味もない」)を繰り返しながら生きるということはどういうことか。
それはシンプルに、生きる意味などなくても生きていける、ということを意味する。
当たり前の話である。
ただ、何も考えずにただ生きているということと、それを理解した上でただ生きるということは、本人にとっては少し違うと思う。
それは人生において発生する事象をどう捉えるか、ということに影響する。
これまた端的に書けば、右往左往せずに済む。
一喜一憂しないとも言える。
ここで表題に戻るわけだが、生きる意味を問い詰めて、生きる意味と実際に生きているという事実の乖離に気づくことは、「なぜ生きる?」という問いからの解脱と言えるのではないかと思うのである。
盛大に戻っておいて、言いたいことはこれだけ。
それこそ、無意味甚だしい。
戯言である。